東京高等裁判所 昭和53年(ネ)1703号 判決
控訴人らは、被控訴人はフェノバルビタールの注射を行っただけで控訴人由香のけいれんを長時間放置したうえ、救急車の手配も行わず、電話連絡もしないで小児科のない総合新川橋病院への転医をすすめ、そのためにけいれん状態にある控訴人由香が市立川崎病院において治療を受けるまで長時間が経過し、因って同人を急性脳症に陥らせたもので、被控訴人に過失がある旨主張するので、以下これにつき検討する。
1 ≪証拠≫を総合すると、幼児のけいれんは比較的頻度の高いものであって、けいれんは原因がいかなるものであるにせよ長びけば長びくほどそれによる後遺症を残す危険性が強く、予後も一般に重篤であるため、医師は一刻も早くけいれんの早期抑制を行うために必要な治療行為をするのが通常であることが認められ、従ってかかる場合には医師としては右のような医療措置を採るべき注意義務があるものと解するのが相当である。
2 そこで、けいれんを抑制するための治療法について検討する。<中略>
3 以上によれば、けいれんが持続している場合にはディアゼパムの使用を推奨している文献はあるものの、先ずフェノバルビタールを使用すべきだとする考え方も有力であり、更に一度フェノバルビタールを使用したがなおけいれんが持続する場合に再度フェノバルビタールの筋肉注射を反復する方法もよいとする説もあり、また、フェノバルビタールの筋肉注射の効果が現われるためには二〇分程度を必要とするものであることが認められる。したがって、被控訴人が控訴人由香に対し、けいれん抑制のために先ずフェノバルビタールの筋肉注射をして約二〇分間様子をみ、更になおけいれんが持続するので、再度フェノバルビタールの筋肉注射をして二〇分間程度患者の様子をみようとしたことは、ディアゼパムの使用を推奨する立場からは原審における証人神岡英機の証言にもあるように悠長にすぎるとの批判を受ける余地はある。しかし、前記証拠にみられるように、ディアゼパムには呼吸抑制等の副作用があり、気道確保等の対応措置の設備が完備していない個人医院を営む被控訴人がディアゼパムを使用せず、乳児である控訴人由香に対し右の措置を採ったことは前掲証拠からみても医学的に不相当な措置であったことは断定しがたく、右治療方法につき被控訴人に過失があったものとすることはできない。従って被控訴人が二回目のフェノバルビタールの効果を見極わめるまで控訴人里都子に対し明確な転医指示をしなかったことをもって過失とすることはできない。
4 次に、被控訴人が控訴人里都子の求めた救急車の手配をせず、転医先として小児科のない総合新川橋病院をすすめたなどの一連の措置につき、その当否を検討する。
前記認定の事実によれば、控訴人里都子が救急車の手配を求めた時刻は、二度目のフェノバルビタールの注射の効果の有無を判断するのに要求される時間をいまだ経過しないころであると認められ、前記のとおり被控訴人医院から近距離にある控訴人ら方には控訴人正春が在宅し、自家用車を保有していることを知っていた被控訴人が救急車の出動を求めるよりは右自家用車を使用する方が早く、便宜であると考え、救急車の手配をすることなく控訴人里都子をして控訴人正春を迎えに行かせ、転医に際し右正春の運転する自家用車を使用させたことは失当と断ずることはできない。また、控訴人正春らに対し、被控訴人が小児科のない総合新川橋病院をすすめたことについては、≪証拠≫によれば、被控訴人は当時総合新川橋病院の発行した診療券に小児科があるもののように記載されていたため、同病院では既に小児科が廃止されていたことを知らず、控訴人由香のけいれんが止まらず、気管に分泌物が詰るおそれがあったので、最も近距離にある救急総合病院である同病院への転医を指示したものであることが認められ、控訴人らは前記のように同病院に赴き、同由香につき気管等の検査を受けたうえ、同病院から電話連絡をしてもらって、小児科のある市立川崎病院で診療を受けたものである。右のような経過があったため控訴人由香が市立川崎病院で診療を受けるのが遅延したことは否めないところであり、前記認定事実によれば、右の遅延時間は一〇数分と推認される。右転医の際被控訴人が控訴人由香に施した注射を記載したメモを交付したのみで、転医先の病院に紹介状を書かなかったことについては、本件全証拠によるもそれがその後の診療を遅らせ又は支障を生ぜしめる原因となったものとは認められないが、被控訴人がその指定した総合新川橋病院に右由香のために電話をしていたならば同病院に小児科のないことが判明し、右時間の空費を避けることができたものと推認できる(但し、右の電話をすることが医師として当然の義務であるとまでは認め難い。)。
ところで前認定のとおり、幼児のけいれんは長びくほど後遺症を残す危険性が大きいものであるが、≪証拠≫によれば、幼児の熱性けいれんは長時間持続する場合は少なく、けいれん重積症は、その本態は医学上も明確ではなく、急性脳症の症状とみられる場合もあり、けいれん重積状態及び急性脳症の発生原因並びにその相関関係については医学上も必ずしも十分に解明されているとはいい難いことが認められ、控訴人由香の場合、被控訴人方から市立川崎病院に到着するまで一〇数分を要したことが同人に急性脳症を発生せしめる決定的要因となったものと断定することは、本件全証拠によっても困難であり被控訴人が控訴人由香を転医させる際の措置に前記のとおり不手際な点があったとしても、それと右由香が急性脳症に患り、本件後遺症が生じたこととの間に因果関係の存在を推定するのが相当であるとはいい難く、右後遺症につき被控訴人が不法行為責任あるいは債務不履行責任を負うべきものとすることはできない。
(外山 清水 鬼頭)